鈴木正和詩集より

一声。
梢は剃りおとされ
岩は砕けて飛ぶ。
あたりはしばらくざわめき
深い静寂にのめっていく。
果実の匂いをはこぶ太古が
同時に数万年後の明日が
ゆっくり歩み寄り 森を包む。
この出会いのあいだで
狂いかけた意識が休息する。
だが 吼えたのではない。
全身にたまっていたものを
不用意に吐きだしたにすぎない。
 (すでに 吐く息の意味も
  吸う息の意味も知っている。)
茂みから漂ってくるだれかの祈り。
こうして俺のなかに夜がふくれていく。
暗さの端に佇んでいると
しだいに確かさをとりもどす
揺れている小さな影。
こみあげてくる肉の泥。
またしても 悟りきれないシャカムニを脅かし
 つづけた
あの悪鬼どもが頭上を飛び交う。
きまって こんな夜だ
永劫からの叫びをきくのは。
狙うべきものの姿まで やがて
はっきり浮きあがってくる。

幼い日 夢多い旅人であった俺。
火焔木が血をしたたらす森を過ぎると
やさしく語りかける声があった。
 「森をいく孤独な旅人よ
 お前はどこへいこうとするのか。
 なにに向かって。なにを求めて。
 お前のなかに息づく乾季の空や
 母胎のなかに荒れていた海を
 覗きにいこううとでもするのか。」
それでも俺は瞳をみひらき
黙って歩きつづけていけばよかった。
熱く焦げた岩屑も逆らおうとはしなかった。
いくつも石窟を歴訪した。
エローラ窟。アジャンター窟。
うちから湧きだすものを四囲にまき散らし
打ち寄せる風化の波に身をさらして
終りのない眠りをむさぼっている石仏たち。
深い眠りのなかでこそ 最も深い存在に
潜入することができる−−とでもいうのだろう
 か。
 「旅人よ お前はどこへいこうとするか。
 だが そこにはなにもない。
 お前のやつれた骨があるばかり。」
それでも歩きつづけていけばよかった。
いつも健康な笑いがあった。
鳴りひびく太鼓があった。
どんな危機にみまわれようと
手向かうことを拒む教理があった。
風は熱っぽく 甘かった。

梵僧の着る長衣に似て
縫い目のない広漠たる領土。
それはそのまま俺の故里。
<王冠にちりばめられた美しい宝石>
それは俺のものではない。
だれのためのものでもない。
ヨーロッパ大陸より渇いた
アラビア海。ベンガルの黒い海。
それよりさらに渇ききっている
俺の砂と森。
ここでは<時>は太陽に灼かれ
終末から始まって よじれよじれて
初めにむかって流れていく。
ときには一陣の風にあおられ
崩壊しようとするささやかな富。
何百マイルつっ走ろうが
彩りを変えようとしない巨大な砂原。
父祖の遺産の貧しさ。
後へ残すであろうものの醜さ。
いっそのこと一枚の枯葉と
命を取り換えたくもなる。
疲れた血が澄むのを待って
岩かげで瞑想をつづけるより仕方がない。

俺は決して願わない
おれひとりの救済など。
心貧しいプラティエーカ・ブッダ。
とても許せそうにない背理。
だから いつも疼きをかかえている。
獲物に跳びかかり噛みくだいていくとき
打ち倒されたものが受けたより
手痛い傷が牙の奥に刻まれる。
悲鳴のはてにたくましい敵をみる。
生理をなだめるためとはいえ
余りにもむごい仕打ち。
なんたる摂理の矛盾。
俺にどんな償いができるというのか。
熟れていく希求の皮下に
いたずらに罪を深めていく。
内省は鋭さをますもろ両刃の凶器。
丹念に爪をとぎ 機会をうかがう。

あわただしく滅び去り
砂にかえっていく数知れぬ壷。
なかをみたしたものはもう甦えらない。
それを元のかたちに留めておこうと
背後ばかり振り返りすぎたのが
誤りだったというのか。
ふとした歴史の曲がり角にさしかかると
<時>は風邪をひいてばかりいた。
蜘蛛は糸を間違えてしまったのか
いつまでも巣をかけられないでいる。
どさくさにまぎれ上陸してくる
ひとりよがりの節くれだった魔手。
たくみに喉元をつかみとり
こま切れにして自分の所有に加算する。
いくたびも振りおろされる血に飢えた刃。
しかし俺は切り離されはしない。
口髭でその暴略をあばきたて
悲しみを怒りにおき換えていく。
どうして 仏塔のうえに高く沈む
あの古代紫の夕暮れを
ゆずり渡すことができようか。
俺はひそかに作戦の網をなげる。
サティヤグラハ。
 (後に<真理の把握>と名付けられたのは
  誤訳だったろうか。)
俺を失脚させようとする意図にさえ
堪えることを知っている。
攻撃の術も知っている。
大地に腹をつけて這っていく。
背中をおおうまだらの模様は
おのれを守るためばかりではない。
俺は人肉の味を知っている。
あのとけいるような甘さを。
あのにがさを。

人間のつくりだした文明の花びらを
いまさら否定しようとはおもわない。
肯定しようともおもわない。
期待を託すことができないものには
いつもひどく冷淡なのだ。
俺の生がこの砂原に始まって
砂粒のなかに埋もれていくように
すべての炎は海から燃えあがり
波間に消えていく。
この嬉しくも悲しくもない必定を
拒む意志は少しもない。
畢竟 俺も滅びにむかって急ぐもの。
冷たい炎をかかえ持ち
触発の時期を待ちうけている。

突如 長い間しびれをきらしていた
共鳴の狼煙が俺を呼ぶ。
ガンジスの黄濁で身を清め
標的にむかって歩き始める。
コナーラク寺院の輪廻の車はあいかわず
重すぎる歓喜をひきずっている。
にぶいその呟きは俺の弦線をかきならし
たちまち高鳴る思念をまるはだかにする。
恐れるものはなにもない。
俺の肢体を切り刻み 搾りとってきた
日陰の論理はすっかり誇りを失い
俺をどん底からどん底へ小突きまわした
脂ぎった指は虚空をまさぐり
残り少ない余命にうろたえている。
うち震える筋肉をだきしめだきしめ
岩上に立つ。
いま 澄みきった網膜を擦過して
おびただしい火花がほじけ飛ぶ。
 ずたずたに寸断される非情の罠。
 飛び散る血を吸ってゆがむ大地。
 塩辛い史誌のうえに翻る三色旗。
 はばたきながら死んでいく文明の蝶。
 仮面の微笑に隠れ死にきれない猛禽ども。
 あらたな明日を約束した紡ぎ車。
 のたうちつづける俺の欲情。
数万劫が一気に駈け抜けたのでもあり
わずか一瞬の出来事でもある。

もはや緑にもえる樹木はない。
どこにも動物はいない。
人間すらもいない。
すべてが原初の秩序に還っていく。
いま 滅び去ったものを背負ったまま
ヒマラヤの雪嶺をこえひろがっていく
はてしない砂の海。
がらんと冴えきった空をよぎって
昔ながらの無害な月が移っていく。
その冷たい光にぐっしょりぬれて
積み重なった負債を痩せた肩で支え
廃墟は いまなお生きつづけている。
このときふと想い出す 幼い日にきいた
飢餓に喘いでいた俺たちのために
自らを餌食として投げだした太子の話を。
癒えることない傷痕を追って
またも砂原を蹴散らして走りだす。

一声。
声高らかに吼える。
その声は遠く深くつき刺さっていって
ふたたび帰ってはこない。
すでに俺は 虎ではない。
宇宙のはてに吼えたける
血みどろの 一個の
肉塊。


宝文館出版 昭和詩大系 鈴木正和詩集より